美術館めぐり。本日は4軒。
モーリス・ワートハイムのコレクションに平常心を保てなくなるフォッグ
フロム平等院な仏様も拝めるサックラー
フェルメールを逃したイザベラ・スチュワート・ガードナー
そして世界のMFA
今まで生きてきて、こんなにもたくさんの名作にいっぺんに触れられたことがあっただろうか。
記憶も曖昧などんぐりヘアーの頃から、画集をめくっては、絵葉書を模写しては、おばあちゃん宛に毎月届く名作ポスターを我を忘れて何時間も穴が開くほど眺めては恋焦がれた「あの」作品たちが、鼻が触れそうな距離にあることを事実だと受け入れるのにどのぐらい時間を要しただろう。
ここで地球が、むしろ私の立ち位置のみが、黒く渦巻かれた何かに吸収されて滅してしまったとしても、何の悔いも残らないとすら思わせる特別な日になったのは間違いのない事実だ。
感動とはじつに気持ちのいいものでしかしどこかで切ない塊が胸に痞える。
ところで、美術館と図書館が人の平静を保たせるのはなぜだろうか。
一つにそれは平和を象徴するからではないかとよむ。
人々が達せない共存を見事に成し遂げた空間。
キリストもいれば仏もいればアッラーも、トーテムも在って、
資本主義も共産主義も、今も昔も、対局するものは対局せずにただ並んでいるだけ。
どれが優れていてどれが優れていないとか、そうゆう議論を装置自体は定義しない(と思う)。
誰にとっても心地がよくてみんなに愛されるのはそうゆうしくみだからじゃないのかなあ。
ぜんぶがぜんぶそうではないけれど、
少なくとも私にとってはそうだ。
切羽詰らずに安閑と暮らす私が平和なんてことを云々言うのは呑気すぎて虫唾が走るかもしれない。
今年の春はボヘミアンが流行りだそうで、ヒッピーみたいにおでこに縄を横切らせた女の子が微笑んでいるのをよく見かける。
語尾にかっこに笑いをつけられても、ピースピースと糾弾した若者の再生産に近いムーブメントと捉えて
いい傾向だと思う。
黒く渦巻かれた何かに飲み込まれるのはもう少し先延ばそう。
ぐるぐると目の回りそうなペイズリーを身にまとって私もピースとつぶやくのだ。
「平和の地」をめぐりながら。
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